東日本大震災の津波でも、死者ゼロの岩手・普代村を守ったのは名物村長の決断
こんばんわ。
YMC株式会社の山本です。
「これぞ、リーダーシップの代表例だ!」
と思ったお話があるので紹介します。
僕も最近知ったんですが、岩手の普代村では、あの東日本大震災で、死者ゼロ、行方不明者が1人にとどまったそうです。
この被害を食い止めたのは、東北一とも言われる高さ15・5メートルもの「水門と防潮堤」でした。
ちなみに隣の田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあったんですが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ているそうです。
つまり、普代村の「水門と防潮堤」はメチャクチャ効果的だったと言うことになります。
この水門と防潮堤は、昭和40~50年代、当時の「村長」が周囲の反対の声を押し切り、建設にこぎつけたものだったのです。
この普代村は過去に何度も津波の被害にあっていた
この普代村は、1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。
1933年の津波でも約600人の死傷者を出した歴史がありました。
この経験があったので、
「悲劇を繰り返してはならない」
と防潮堤と水門の建設計画を進めたのが、和村村長。
しかし、かなりの費用(総工費は約36億円)がかかるので、周囲からは大反対に会いました。
『こんな小さな村でこんな予算は出すなんて無理だ!』
『他のことに使ったほうが良いんじゃない?』
『ここまでの高さは必要なの?』
といった批判もたくさん受けたんです。
でも、和村村長は譲らなかった。
周囲の反対を押し切って「15・5メートル」の水門と防潮堤の建設を強行
明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていたらしく、絶対に高さ15メートルの波がくれば、根こそぎやられるという危機感が、和村村長にはあった。
なので、「15・5メートル」という高さにメチャクチャこだわって作ったんです。
彼の固い決意は、反対派の意見などは、全く耳に入りませんでした。
その反対を押し切って、水門と防潮堤の建設をすすめたんです。
そして、昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成。
和村村長の歴史に残る英断は、死後14年たった、2011年3月11日に、見事に証明されることとなりました。
死者ゼロ、行方不明者が1人。
和村長は、退任のときにこう語っています。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は、反対があっても説得をしてやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」
リーダーは周囲の反対に耳を傾けてはいけない。そこに理念があるなら・・・
僕らは治療院を経営していく中で、周囲のスタッフからたくさんの反対をもらいます。
「院長、こんなことやっても意味ないですよ」
「逆に患者さんからクレームになりますよ」
「ただ余計な仕事が増えるだけですよ」
「そのやり方は、うちの地域やスタイルに合わないですよ」
などと反対されるでしょう。
わかります。
でも、普代村の村長のように、
「これは絶対に成し遂げないとダメだ!」
「この経営上の変更は、今は苦しくても、将来必ずみんなのためになる!」
という理念が想いがあるなら、スタッフの意見は聞いてはいけない。
「日向くんの強引なドリブル」で、突き進まねばならないときがあるんです。
そのあなたの英断が証明される日は、3年後なのか、5年後なのか、はたまた10年後になるのかわかりません。
でも、
- 絶対にそうしたほうが将来のためになる
ということは、周囲の反対をもらってもやったほうが良い。
ぜひ、周りに流されない理念や想いを貫いてみて下さい。
山本