東日本大震災の津波でも、死者ゼロの岩手・​普代村を守ったのは名物村長の決断

2017年9月25日

こんばんわ。

YMC株式会社の山本です。

「これぞ、リーダーシップの代表例だ!」

と思ったお話があるので紹介します。

僕も最近知ったんですが、岩手の普代村では、あの東日本大震災で、死者ゼロ、行方不明者が1人にとどまったそうです。

この被害を食い止めたのは、東北一とも言われる高さ15・5メートルもの「水門と防潮堤」でした。

ちなみに隣の田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあったんですが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ているそうです。

つまり、普代村の「水門と防潮堤」はメチャクチャ効果的だったと言うことになります。

この水門と防潮堤は、昭和40~50年代、当時の「村長」が周囲の反対の声を押し切り、建設にこぎつけたものだったのです。

この普代村は過去に何度も津波の被害にあっていた

この普代村は、1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。

1933年の津波でも約600人の死傷者を出した歴史がありました。

この経験があったので、

「悲劇を繰り返してはならない」

と防潮堤と水門の建設計画を進めたのが、和村村長。

しかし、かなりの費用(総工費は約36億円)がかかるので、周囲からは大反対に会いました。

『こんな小さな村でこんな予算は出すなんて無理だ!』

『他のことに使ったほうが良いんじゃない?』

『ここまでの高さは必要なの?』

といった批判もたくさん受けたんです。

でも、和村村長は譲らなかった。

周囲の反対を押し切って「15・5メートル」の水門と防潮堤の建設を強行

明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていたらしく、絶対に高さ15メートルの波がくれば、根こそぎやられるという危機感が、和村村長にはあった。

なので、「15・5メートル」という高さにメチャクチャこだわって作ったんです。

彼の固い決意は、反対派の意見などは、全く耳に入りませんでした。

その反対を押し切って、水門と防潮堤の建設をすすめたんです。

そして、昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成。

和村村長の歴史に残る英断は、死後14年たった、2011年3月11日に、見事に証明されることとなりました。

死者ゼロ、行方不明者が1人。

和村長は、退任のときにこう語っています。

「村民のためと確信をもって始めた仕事は、反対があっても説得をしてやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」

リーダーは周囲の反対に耳を傾けてはいけない。そこに理念があるなら・・・

僕らは治療院を経営していく中で、周囲のスタッフからたくさんの反対をもらいます。

「院長、こんなことやっても意味ないですよ」

「逆に患者さんからクレームになりますよ」

「ただ余計な仕事が増えるだけですよ」

「そのやり方は、うちの地域やスタイルに合わないですよ」

などと反対されるでしょう。

わかります。

でも、普代村の村長のように、

「これは絶対に成し遂げないとダメだ!」

「この経営上の変更は、今は苦しくても、将来必ずみんなのためになる!」

という理念が想いがあるなら、スタッフの意見は聞いてはいけない。

「日向くんの強引なドリブル」で、突き進まねばならないときがあるんです。

そのあなたの英断が証明される日は、3年後なのか、5年後なのか、はたまた10年後になるのかわかりません。

でも、

  • 絶対にそうしたほうが将来のためになる

ということは、周囲の反対をもらってもやったほうが良い。

ぜひ、周りに流されない理念や想いを貫いてみて下さい。

山本